コスプレの心理学:なぜ別の存在になるのか、その意味とは

ハロウィン、ハロウィーン 心理学

この記事の要約
・ハロウィンは宗教的な行事ではなく、民間の祭りとしてアメリカで始まり、世界に広まりました。
・日本では1980年代以降にハロウィンがイベントとして活発に行われるようになり、1990年代に入り商業活動として利用されるようになるとさらに活性化し、現在の姿になりました。
・著者は当初、コスプレイヤーは精神的な健康が低いと考えていましたが、これは間違いでした。
・コスプレイヤーを対象にした学術論文によると、コスプレイヤーは一般大学生と比較して自己嫌悪が低いことが明らかになっています。
・コスプレイヤーが求めるものとして非日常性があり、コスプレは承認欲求を満たしてくれる場であり、コスプレ対象への愛情表現の場として機能しています。
・コスプレを通して活力を得ているコスプレイヤーは、健康的な行動をしていると言えるでしょう。
・著者は、ハロウィン自体は否定しませんが、平時の商業活動に影響が出るほどの現状や犯罪の温床になりかねないことなどから、安全面での懸念を示しています。
・京都三大祭のひとつである「時代祭」も、仮装した人が練り歩くという点ではハロウィンと本質は同じです。
・今年のハロウィンが全国で無事に行われることを願っています。

はじめに

10月31日はハロウィン。都市部では過剰なまでの「ハロウィンまつり」が行われ、その影響は商業活動にも及び毎年警察が出動する事態となっている。
ハロウィンの代名詞といえば仮装行列である。
いわゆるコスプレイヤーと呼ばれる人々もこの日の前後に活動が活発になる。
ハロウィンは一種の祭りでもあるため、様々な参加者がいるのだが、日常の自分という存在を離れ、違う存在になりきることが許されている日があることが、不思議なことだと私は感じている。
そもそもなぜ人々はコスプレをするのか。
これだけ多くの人々の心を動かすハロウィンとは何なのか、そして、コスプレにはどのような意味があるのか。
その背景とコスプレの心理学的見解、そこからの私なりの考察を行いたいと思う。

ハロウィンとは何か

私も調べるまで知らなかったのだが、ハロウィンは宗教的な行事ではないようだ。
起源をたどるとキリスト教の「死者の日」と関連があるようだが、それとは切り離された存在とされており、キリスト教の祭典でもない。
現代の形のハロウィンは民間の祭りとしてアメリカで始まり、それが世界に広まっていったようだ。
日本でハロウィンがイベントとして活発に行われるようになったのは1980年代以降。
それが1990年代に入り商業活動として利用されるようになりさらに活性化。
インターネットの発展に伴い、情報が拡散されるようになると規模はどんどん広がり、現在の姿になっていった。
日本という国は世界から見ると非常に特殊で、多くの国民は無宗教者と認識していながら、お寺や神社にお参りに行き、他国の(主にキリスト教)宗教行事が国民的行事として行われている。
その背景にはもちろん商業的に儲かるからという理由は無視できないものの、ほかにも日本人の同調しやすさという文化的背景も関連しているように思う。
「なんとなく」で流されてしまう。深く考えずに周りに合わせてしまうという形で、こういった欧米文化のお祭りが日本に溶け込んでいることは想像に難くない。
ハロウィンで騒いでいる人もこういう人が多数いることが推測できる。
一方でこのイベントに本気で挑む人がいる。コスプレイヤーたちだ。

コスプレの心理学:仮説と結論

私の仮説ではコスプレイヤーは精神的な健康が低いと考えていた。
日常に満足できず、その欲求不満を別の存在になりきることで発散させている。
心の奥底では生まれ変わりたいという欲求を常に持っていて、自尊感情が低い。
日常生活での適応ができず、周囲からの評価を得られづらいので、コスプレをすることで周囲からの賞賛、注目を集めようとする。
かなり極端ではあるが、これが私がこの記事を書く前に建てた仮説である。

これは間違いだった。

世間には数は少ないもののコスプレを対象にした学術論文が存在する。

越智(2009)ではコスプレイヤーの自己嫌悪、目立ち願望、賞賛願望、自尊心、変身願望を質問紙を用いて測定し、一般大学生群と比較させた。
結果としては、コスプレイヤーは一般大学生と比較し、自己嫌悪が低いことが明らかとなった。
また、目立ち願望が高いが、賞賛願望、自尊心、変身願望には有意な差はみられなかった。

貝沼(2016)は、コスプレイヤーが求めるものとして非日常性を挙げ、それが行われる場はコスプレイヤーたちの想像の場であり、承認欲求を満たしてくれる場であり、コスプレ対象への愛情表現の場として機能し、日常場面とは違った名前、仲間、服装、場所により非日常性を生み出すとされている。
さらにはコスプレは地域活性化のコンテンツとしても機能していくことが事例紹介を通して説明されている。

これらの論文からは私が立てていた仮説は間違いであることが示された。
ちなみに越智(2009)では、私が立てたような仮説のことを「シロウト理論」と呼んでいる。
勝手に自分のフィルターを通して解釈する素人的な発想をしてしまったことを反省したい。
よくよく思い返してみれば、私がこれまで出会ってきたクライアントにはコスプレイヤーはいなかった。
そもそもハロウィンやイベントなど大勢の人が集まる場所で、注目を集める経験ができる人が極端に精神的健康が低いことはなかなか考えづらい。
私もテーマパークやイベントでコスプレをしている人と出会ったことがあるが、そういう人たちはほとんど楽しそうにその場に存在していた。
それが一般集団よりも自己嫌悪が低い状態であるという研究結果にも表れているだろう。
また、コスプレイヤーたちの熱意はすさまじいものがある。ある対象になりきるということは、その対象への愛が必要である。その愛を向けるエネルギーを持っているし、イベントのために準備をし、時には衣装を自作するそのエネルギーは並大抵のものではないだろう。そして同じ場を共有するコスプレ仲間たちは自分の存在を受け容れてくれる優しさを提供してくれる。
コスプレによりもたらされる非日常性。これはまさしくマインドフルネスにおけるリトリートとも重なる印象がある。
彼ら彼女らはコスプレを通して活力を得ている。それはとても健康的な行動ではないか。私はそう感じている。

ハロウィンに思うこと:伝統的な祭りとの共通点

ここまで見てきたように、ハロウィンをはじめとしたコスプレには精神的健康を高める効果が示されている。
だが、平時の商業活動に影響が出るほどの今のハロウィンはやりすぎだと思う。
また、犯罪の温床にもなりかねないことからも安全面での懸念もある。
ただし、ハロウィンの存在を否定するつもりはない。
私は先日、京都三大祭のひとつ「時代祭」で馬を曳いた。
それは100年以上続く伝統行事で、私も比叡時代の服装を模した衣装を身に着け行列に参加したのだ。
それとハロウィンの仮装行列は何が違うのだろうか。
宗教的背景や歴史がちがっても、仮装した人が練り歩くという本質は同じだ。
時代祭をはじめ京都三大祭は京都の中心部を通行止めにして行われる。
それに見合う集客もあるのだが、これも経済活動に影響を及ぼすという点ではハロウィンと違いはないだろう。
今のハロウィンも数百年後には古典的な祭りとして文化に組み込まれている可能性がある。
安全な形で行われるならば、それは後世に誇れるものにもなり得ると言えるのではないか。
今年のハロウィンが全国で無事に行われることを願いたい。

参考文献
越智啓太. (2009). コスプレーヤーの心理的特性 コスプレーヤーは自分が嫌いか?. 日本心理学会大会発表論文集 日本心理学会第 73 回大会, 212, 公益社団法人 日本心理学会.
貝沼明華. (2016). コスプレイヤーが求める非日常性 コスプレにおける場の意味. コンテンツツーリズム学会論文集, 3, 49.


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