この記事の要約
- これは、日本マインドフルネス学会第11回大会のシンポジウム「様々な領域におけるマインドフルネスの新たな課題と挑戦」の内容をまとめた記事です。
マインドフルネスの原典回帰
- 近年のマインドフルネスブームでは、マインドフルネスが手軽なストレス解消法や高級志向に偏っていること、暗黙のマイノリティの排除、根本的な社会システムの問題の不可視化といった課題が指摘されています。
- これらの課題への解決策として、シンポジウムではマインドフルネスの仏教的視座への原点回帰の重要性が強調されました。
- マインドフルネスの語源である仏教用語「sati」は、欧米文化に適応する過程で本来の意味が改変され、世俗化が進んだ結果、現代のマインドフルネスが生まれたとされています。
- この世俗化によって、マインドフルネスは個人の苦悩からの解放という側面に傾倒し、自己啓発や自己実現といった個人主義的な価値観と結びついてしまいました。
- 近年では、こうした過度な世俗化への批判から、仏教の本来の意味でのsatiの機能に回帰する動きが出てきています。
- 池埜氏(2021)は、satiの機能として、「思い出す機能」「触媒としての機能」「ケアの機能」の3つを挙げています。本記事ではそれらについて、筆者の見解も交えながら解説しています。
- これらのsatiの機能を理解することで、本来のマインドフルネスの姿が見えてきます。
過酷な日々を生きる人へのマインドフルネス
- シンポジウムでは、マイノリティや偏見、差別、トラウマに苦しむ人々へのマインドフルネスについても議論されました。
- 本来、マインドフルネスはすべての人に向けられたものですが、現代では商品化、白人化、道具化が進んでいるという指摘があります。
- satiの「ケアの機能」は、人々に自然と優しさを生み出します。「思い出す機能」によって本来のsatiの姿を思い出すことで、過度の世俗化を回避することができます。そして、「触媒としての機能」が実践の土台を作ります。
- これらの機能を正しく発揮できるマインドフルネスは、過酷な日々を生きる人々にとっても優しいものとなるでしょう。
- シンポジウムでは、「私を手放す」ことについて議論されましたが、私を感じられない人や私を感じることに苦痛を覚える人にとっては、マインドフルネスの実践は困難です。
- そうした人々には、まず「私が存在しても良い」という絶対的な安心感を持ってもらうことが必要です。
- 「自灯明法灯明」という言葉が仏教ではあるように、マインドフルネスを実践するためには、自分というしっかりとした土台が必要です。
- 自分の醜い部分も含めて自分を受け入れることは、すべての人にとっての課題です。
- 相手がどのような世界に生きているのかを正しく理解し、その獲得をサポートすることが、心の専門家が行うマインドフルネスの使命です。
日本マインドフルネス学会第11回大会2日目
強いインスピレーションを受けた日本マインドフルネス学会第11回大会。
全身でマインドフルとコンパッションを浴びた初日の勢いそのままに2日目が幕を開けました。
初日の振り返り記事はこちら↓
『様々な領域におけるマインドフルネスの新たな課題と挑戦』
2日目は年次大会として、シンポジウム、特別講演、大会長講演が行われた。
最初はシンポジウム「様々な領域におけるマインドフルネスの新たな課題と挑戦」
領域も肩書も様々なシンポジストの先生が登壇され、マインドフルネスの可能性について議論が行われた。
この中で、マインドフルネスの原典とマイノリティやトラウマに苦しむ人々へのマインドフルネスというテーマが私自身の心に残ったので、今回はそれについてまとめていく。
原典に戻っていくマインドフルネス
シンポジストの池埜氏と川野氏の発表では、マインドフルネスの仏教的視座への「原点回帰」の重要性を感じた。
マインドフルネスは仏教の思想をベースにしている。
しかし、昨今のマインドフルネスブームにおいては、マインドフルネスは手軽なストレス解消法や高級志向、暗黙のマイノリティの排除、根本的な社会システムの問題の不可視化という課題が浮き彫りになっている。その課題は批判となり、現代のマインドフルネスに対して浴びせられてもいる(この点については午後のシンポジウムでも触れられた)。
そして、その課題や批判への解決策として、マインドフルネスへの仏教への再文脈化が有効であると述べられていた。
この点について、私の学習用という意味合いも含め、池埜 (2021)を参照しもう少し深めていきたい。時折私の個人的な考えも挟んでいこうと思う。
マインドフルネスの語源sati
仏教の経典「念処経」に登場するsatiはマインドフルネスの語源として知られる。このsatiが欧米の白人系を中心とした文化的価値に順応していくようにその意味が改編され、世俗化の果てにマインドフルネスが生み出されたと、池埜(2021)は多数の海外文献から考察している。
その結果として、マインドフルネスは個人の苦悩からの解放という側面に傾倒していき、自己啓発や自己実現といった個人主義的な価値と共鳴、それが過度な世俗化への批判にも繋がり、近年では仏教の本来の意味でのsatiの機能に回帰する動きが出てきている。
そもそもsatiとは八正道における正念、七覚支における念覚支の位置づけとされている。
正念というのは「正しい気づき」の教えでもあるのだが、そんなsatiの機能とはどのようなものだろうか。池埜(2021)ではsatiの機能として「思い出す機能」「触媒としての機能」「ケアの機能」の3つを挙げている。
思い出す機能
satiはパーリ語では「記憶」を意味し、動詞形saratiでは「思い出す」という意味である。
マインドフルネスの語源となった念処経のsatiは「今この瞬間に意識をとどめる」だけでなく、「瞑想に取り組む初心」を常に思い出す心的作用も表している。
「瞑想に取り組む初心」とは、仏教的には法、サンガ、倫理的行為、捨施、天部といった対象をいう。噛み砕いていうと、教えや法則、動機、所属集団やより大きな存在といったものになるだろうか。
この思い出す機能については、現代のマインドフルネスであまり取り上げられていない部分なのではないかという指摘が述べられている。
触媒としての機能
satiは触媒となる。何の触媒かというと、瞑想実践における態度、注意深く熱心な観察と認識、動機づけを結びつける。
初日にDr.Kuyken氏がマインドフルな人生には目覚めが必要と述べていた。
その目覚め、そこからの人生の中での意識づけが瞑想実践を行う上では大切となると私は考える。
その土台を支えるものがsatiであるといえる。
ケアの機能
satiの機能は個人内にとどまるものではない。
それは他者、周囲にも同様のsatiを生じさせる。これはよく言われる、「マインドフルネスは伝播する」「コンパッションは伝播する」の背景であると私は考える。
satipatthanaはsatiとupatthanaを合わせた派生語であり、upatthanaは「ここに在る」「近くにいる」「寄り添う」という意味である。つまり、satiには本質的に「ケアする」という含意が存在し、自己、他者、自他の関係に向けられるものとなる。
念処経では、satipatthanaを耕すことで自分を守り、他者を守るとされており、satiはまさしくコンパッションを生み出すエネルギーになり得ることが示唆される。
過酷な日々を生きる人へのマインドフルネスの在り方
このようなsatiの機能を理解すると、本来のマインドフルネスの在り方も自然と浮かび上がってくる。
シンポジウムではマイノリティや偏見、差別、トラウマに苦しむ人へのマインドフルネスについても取り上げられていたが、元来マインドフルネスはすべての人に向けられたものであるのに関わらず、現代ではそれが商品化され、白人化され、道具化しているという指摘もある。
satiの「ケアの機能」は自然と人々に優しさを生み出してくれるものであるし、こうした本来のsatiの姿を「思い出す機能」によって、過度の世俗化を回避することに繋がる。そして、実践の土台を作るのが「触媒としての機能」となる。
こうしたsatiの機能を正しく発揮できるマインドフルネスは、過酷な日々を生きる人々にも優しいものとなるのではないだろうか。
私を取り戻すこと
このシンポジウムではいかにして「私を手放すのか」という点が指定討論のテーマとなった。
ここに対する私なりの考えを述べたいと思う。
このテーマの背景にはマインドフルネスは本質的に個人レベルを超えた体験であるという前提がある。
これは先のsatiの機能を考えてもその通りだと思う。
問題は、私を感じられない人、私を感じることに苦痛を覚える人はどのように、マインドフルネスに取り組むのかということだ。
事実、こういう人がマインドフルネスを行うと、フラッシュバックや情緒の不安定さが生じたり、継続が難しくなる場合がある。また、本来問題となっている部分を隠ぺいしてしまう恐れもある。池埜氏も指摘していたように、「私が存在してはいけない」と思う人にはマインドフルネスの取り組みは非常に難しいものになることは想像に難くない。
私が考えるに、こうした私を感じることにハンデを抱える人たちには、まず私が存在しても良いという絶対的な安心感を持ってもらう必要があると感じている。
まずは自分を取り戻す。それから自分を手放すというプロセスになるのが自然であると考える。
その理解に役立つのが、仏教の言葉である「自灯明法灯明」だと思う。
これはブッダが亡くなる直前に、弟子たちに向けた言葉で、簡単にまとめると、自分自身とブッダの教えをよりどころにしてこれからの人生を生きろということになる。
ここでいう法は私を手放すという広義の教えにあたる部分であるが、それには自灯明、自分の存在も必要ということである。
どちらも欠けてはいけない。何事もそうだが、盲目的な信心は危険をはらむ。
自分というしっかりとした土台がマインドフルネスには必要であることからも、私を取り戻すという作業はとても大切であると感じる。
私なりの考えでは、法はマインドフルネス、自はコンパッションというイメージだ。
どちらも大切な要素であり、両者が存在することにより相乗効果でマインドフルネスは高まっていく。
煩悩即菩提
自分を灯し火とするということは、自分を受け入れるということ。それは自分の醜い部分も優しく包み込むということである。
これはすべての人にとっての課題でもあるのではないか。私もふと気が付けば、煩悩だらけの人間だ。
だが、仏教では「煩悩即菩提」という言葉がある。煩悩があるからこそ、我々は悟ることができる。これはブッダが遺した言葉でもある。
醜い部分を持つ自分を受け容れる。それが難しい人もいることを理解し、その獲得をサポートすることこそ、心の専門家である我々が行うマインドフルネスの使命である。
そのためには、我々は相手がどのような世界に生きているのかを正しく把握することが重要であると感じた。
まとめ
これからのマインドフルネスはやはり「原点回帰」していく必要があると感じる。
仏教に染め上げる必要はないと思うが、仏教的な背景を伝えていくことが大切であると私は考えている。
私自身も仏教は関心が強いので、仏教への再文脈化は受け入れられやすい話であり、今後のマインドフルネスの理想的な発展の方向だと感じた。そして何よりも池埜氏、川野氏の熱い思いに心を打たれた。
2日目特別講演のまとめはこちら
参考文献
池埜聡. (2021). 位相的観点から見通すマインドフルネスの新展開: 社会正義の価値に資する方法として. 心理学評論, 64(4), 579-598.
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