「ある」と「無」とネガティブ・ケイパビリティ:日本マインドフルネス学会第11回大会振り返り(3)

マインドフルネス

この記事の要約

  • 「無」にとどまる力は、私たちの人生にとって大切なものです。
  • グリーフケアとは「無」の関わりであり、患者自身も支援者自身も無力感に直面することを意味します。
  • 「無」に耐える力をネガティブ・ケイパビリティといい、測定不可能な態度であることが特徴です。
  • ネガティブ・ケイパビリティは問題解決をせず、分からなさにたたずむことであり、マインドフルネスのBeingモードにも近いものです。
  • マインドフルネスは「無」を観察し、「ある」と「無」を繰り返しながら、変化していくものですが、ネガティブ・ケイパビリティは「無」にとどまるという違いがあります。
  • ネガティブ・ケイパビリティは、問題があるが解決策がない、または解決策があってもそれができない状態にとどまり続けるときに真価を発揮します。
  • 見えないネガティブ・ケイパビリティの存在を自分が感じたとき、それは「コンパッション(慈悲)」に変化していると考えられます。
  • 「無」には「できない」と「できるけどしない」の2種類があり、支援の現場では「できるけどしない」という「無」が生じることがあります。
  • 「できない」の先には「できる」があり、「できるけどしない」の先には変化、旅立ちが生じると考えられます。
  • ネガティブ・ケイパビリティは自立そして創造という変化にも繋がっていくといえます。
  • 「無」にとどまることは難しいですが、変化の陰には必ず「無」が存在します。
  • ネガティブ・ケイパビリティは見えなくても、その先の変化の土台となります。

私の中に熱い気持ちを呼び起こしてくれた今年のマインドフルネス学会。
その振り返り3記事目となる。

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特別講演「グリーフケアとマインドフルネス」

上智大学グリーフケア研究所の西平氏による講演。
私の中ではこの講演が2日間の中で一番印象に残っている。
深い衝撃と感動を私に与えた。
会場で聴いただけでは未消化な部分もあったので、この記事を書きながら、再度この内容を私自身も深めていきたいと思う。

グリーフケアは「無」の関わり

西平氏の講演では頻繁に「無」が語られた。
グリーフケアとは「無」の関わりである。
それは患者自身も支援者自身も無力感に直面することを意味する。
私自身も緩和ケアや遺族ケアに携わっていた経験があるが、患者の無力感、そして私自身の無力感を日々実感していた。
そのなかで、自分に何かできるのではないかと模索し行動して、たしかに感謝されたこともあったが、未熟な私が「無」に耐えられず必要のない介入を行ってしまったのではないかと、今でも反省しているケースもある。

「無」を概念化する:ネガティブケイパビリティ

この「無」に耐える力をネガティブ・ケイパビリティという。
私も、緩和ケアに関する医療従事者向けの研修でこの概念を取り上げたことがあるが、今でもとても難しい概念だと感じている。その理由のひとつに、ネガティブ・ケイパビリティが測定可能なものではなく、態度であることが関係している。

ネガティブケイパビリティは「無」にとどまる

ネガティブ・ケイパビリティの理解は難しい。それは私たちがいかに問題解決思考を日々行っているかということに関連している。
問題解決をせずただ、その分からなさにたたずむ。
それはマインドフルネスが目指すBeingモードにも近いものがある。
マインドフルネスも「無」を観察する。それはブッダが悟った諸行無常、すべて物は無であるという現実をありのままに見る行いである。
ネガティブケイパビリティも「無」に焦点を当てるという点では同じだ。
だが、違う部分がある。
まずは測定が可能かどうかという違いだ。
マインドフルネスは尺度が存在し、また、脳機能でも島皮質や偏桃体、デフォルトモードネットワークなどとの関連が示されているが、ネガティブ・ケイパビリティはそうした測定ができない(研究が進んでいない)。

そして、もうひとつ重要な違い、それはネガティブ・ケイパビリティの「無」にとどまるという特性にあると私は考えている。
マインドフルネスでは、その瞬間瞬間の真実、その瞬間に存在するものに意識を向け、また新しい瞬間を感じていく。
「ある」ものが流れゆくという「無」を感じるが、また新しい今この瞬間が「ある」ということを感じていく。
そして、「無」を通して絶対に変わらない自分という空間が「ある」ことに気が付くことや、今この瞬間に「ある」ことに気が付くというプロセスがある。マインドフルネスは、「ある」からこそ「無」に気づき、「無」から「ある」を感じ、また「無」に気づくという繰り返しでもあるといえる。
一方、ネガティブ・ケイパビリティは同じ「無」に焦点を当てているが、何かが「ある」状態の中での「無」に焦点を当て、そこにとどまるものであると私は解釈している。
何か問題があるとする。それに対して解決策がない状態や解決策があってもそれができない状態。そこにとどまり続けるときにネガティブ・ケイパビリティは真価を発揮する。
ネガティブ・ケイパビリティは測定できない。それは、その存在自体が「無」にとどまっているから見えないというのが理由ではないか。

ネガティブ・ケイパビリティの可視化=コンパッション

見えないネガティブ・ケイパビリティの存在を自分が感じたとき、すでにそれは形を変えているのではないか。
それは「コンパッション(慈悲)」であると私は考える。
分からなさ、矛盾を抱えてとどまり続ける。その時に私たちは自分自身に慈悲の心を向ける。
この時、ネガティブ・ケイパビリティはコンパッションに変化し、測定可能なものとなっている。
そして、観察可能で「ある」ものに変化していることを感じることはマインドフルネスにも通じていく。

「無」の分類

西平氏の講演では「無」には「できない」と「できるけどしない」の2種類があることが示された。
問題に対して有効な手立てがない、この場合の「できない」という「無」は一般的でわかりやすい。
そして、もう一方の「無」である「できるけどしない」という状態。
これは支援の現場ではよく生じることでないかと感じる。
本当はできることがあるけどあえてしない。分かっているのだけれどあえてしない。ケースバイケースではあるが、支援者として、あえて「無」にとどまるという場面もあるのではないか。
これは支援の枠組みとも関連するが、プライベートな対人関係ではないケアの関係性の中で、我々支援者はあえてしないという選択を取ること、取らざるを得ないことがある。
こうした状況もやはり「無」であるといえることからも、あらゆる支援者にはネガティブ・ケイパビリティの能力が必要といえるのではないか。

「できるけどしない」の先にあるものは

ではこの「無」の先に何があるのだろうか。
「できない」の先には「できる」がある。これは想像しやすいだろう。
全てのことが解決可能であるわけではないか、人間はこの「できない」を「できる」にする力には長けている。
そしてもう一方の「できるけどしない」の先には何があるのだろうか。
これが、今回の講演で西平氏から私たちに投げかけられた問いだった。
ここについて私は、何かしらの変化、旅立ちが生じると考える。
講演の中で西平氏は「守破離」を引用し、できるけどしないの先にあるのは「離」であると説明した。
それは新しいものを確立していくということだ。
これは、対象者が自分で立ち直っていくことを支援するという心理療法の価値観にも共通するのではないだろうか。
ネガティブ・ケイパビリティは、こうした自立そして創造という変化にも繋がっていくといえる。

ネガティブ・ケイパビリティは変化の土台となる

いずれにせよ、「無」というのは「ある」を目指し変化をしていく。
だからこそ「無」にとどまることは難しいし、ネガティブ・ケイパビリティの理解は難しいのだろう。
だが、変化の陰には必ず「無」が存在する。
「無」にとどまり、コンパッションやマインドフルネスがそれを可視化し、「ある」に変えていく。また新たな「無」が現れ、そこにとどまることで変化が起こっていく。
そのような連鎖の中に確実にネガティブ・ケイパビリティは存在している。
ネガティブ・ケイパビリティは見えなくても、その先の変化の土台となる。
そこにとどまる力というのは、我々の人生にとても大切なものとなるだろう。

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