誰かに何かを与えたいという気持ちが湧き起こるとき、その与えたいものは自分が求めているものであるかもしれない。
この現象は単なる偶然ではなく、人間の心理や社会的つながりによってもたらされている。
人は無意識のうちに、自分自身が満たされたいと思う欲求や願望を、他者に与える行動を通じて表現することがある。
それに気づくことは、有効なセルフケアにも繋がるとても大切な気づきであるといえる。
他者に与えたいという心の背景にあるもの
他者に何かを与える
それは優しさによってもたらされるのであるが、往々にして私たちは与えるものに自信の価値観や思想を反映させている。
もちろん、それ自体が悪いことではない。
このとき大切なことは、自分が与えようとしていたものは、自分自身が求めていたものではないかと、冷静に考えることである。
特に、こちらは良かれと思っていても相手にうまく響かない時などは、冷静に自分の心を観察したほうが良い時だろう。
往々にして、他者に何かを与える際の価値観は、自分自身が求めるものの本質を表していることが多い。なぜそうなるのか、解説していきたい。
与えるものの特徴
例えば何かを与えるとき、自分自身が情緒的なつながりを重視する人は、他者に対しても情緒的なサポートや時間の共有といった形で与えようとし、一方で、自分が専門知識や実践的なヘルプを価値あるものとして求める人は、他者に対しても同様の形で援助しようとすることが自然である。
このように与え方にも自分自身の欲求パターンが反映される。
その気づきは自己理解にも繋がるものとなる。
投影
心理学における重要な概念のひとつに「投影」がある。
これは、自分自身の感情、願望、特性を無意識のうちに他者に映し出し、あたかも他者がそれを有しているかのように理解する傾向である。
これは防衛機制の一つで、すべての人間がこの投影を知らず知らずのうちに行う可能性があるとされている。
他者に何かを与えようとするとき、私たちは「これは相手に喜ばれるだろう」と判断してそれを与える。
だが、実際には、その判断基準は自分自身が価値を見出すものや欲しいと思うものを他者に投影しているということが少なくない。
繰り返しになるが、他者に与える行為それ自体は悪いものではない。心の防衛としての投影も自然な現象である。
だが、自分にこうした欲求やがあるのかもしれないという気づきは、自己理解とセルフケアを深めるうえで大切となり、それは対人関係にも良好な効果をもたらしていく。
ステレオタイプ
投影のほかに、他者の欲求を推論するときに用いられるものがステレオタイプである。
ステレオタイプとは、ある集団に特有のイメージ(これは個人的に作られたものもあれば、社会的に作られたものもある)のことであり、我々は普段からそのステレオタイプを通じて、対象の内的特性を推測している。
私たちは普段の生活の中で、知らず知らずのうちに先入観をもとに判断をしたり、物事を評価していることがある。
大切なのは、自分がどういった判断基準や評価基準をもって生きているかに気づくことである。
マインドフルネスの実践はこうした意図せず行っている価値判断や評価への気づき、さらには投影などの心の防衛状態への気づきをもたらしてくれる。
偏りのない視点から自分を見ることは、潜在的な自分の価値観や欲求に関する理解を深めてくれる。
人の欲望は他者の欲望である
「人の欲望は他者の欲望である」
これはフランスの精神分析家ジャック・ラカンの言葉である。
この言葉の背景には、人間の欲望は孤立した個人的なものではなく、他者との関係性の中で形成されるというラカンの認識が表現されている。
人間はどんなに自発的に欲望を持つように見えても、実際は言語という仕組みの中で他人を通して欲望させられているのだということをラカンは示している。
また、ラカンは「欲望の対象」を数式における未知数Xのように「対象a」と名付けた。
その理由は、自分が求めるものは他者を通して得られるもののため、自分には分からないにも関わらず、その欲しいものを求めてしまうために、欲しいと思っていたものを手に入れた瞬間に別の対象が欲しくなってしまうというループが生じるためである。
終わらない欲望の連鎖の存在をラカンは突き止めていたのだ。
私の欲求というものは存在するのか
投影やステレオタイプは他者に自分の求めるものや価値観、思想を映し出す心のはたらきである。
一方でラカンの思想は、他者を通じて自身の欲望を理解できるという点は共通するものの、そもそもこの「欲しているもの」自体が他者を通してのみ得られるものであり、決まった形で存在するものではなく、形を変え続けるものであると仮定した。
これらから、ひとつの疑問が生じる。
果たして「私の欲求というものは存在するのだろうか」というものである。
私は存在しない|借り物の自分
ラカンも指摘しているように、欲望は満たされても新たな欲望を生む。
その連鎖は止まることはない。
仏教では「無我」という言葉がある。
文字通り、我というものは存在しないという意味である。
私にこだわることは苦しみを生む。
私というものはあくまでも、この現世を生きる上での借り物に過ぎないというのが仏教の考え方である。
無我から欲望について考えると、「私の欲求」というものは幻のものといえるのではないだろうか。
この無我の考え方から、他者に何かを与えるという行動を考えるときに役立つのが、同じく仏教用語である「慈悲喜捨」である。
慈悲で与える心
慈悲喜捨の心は、相手に慈しみ、思いやりを持って、相手のために、自らのこだわりを捨てるというものとされる。
私たちは、様々な気づきから慈悲喜捨の心を得ることができる。
自身の心を見つめたときに見えてくる与えたいという気持ち。
それは相手への優しさ、思いやりから相手のことを思って生まれるものだろう。
そして、その時与えるものは自分が求めているものかもしれないという気づき。
誰かに優しくするように、自分にも優しくしてみる。
その気づきが、無理をしない、ありのままの自分を受け入れ、自分に優しくなるための一歩となることもある。
さらに、まず与えるためには自分自身がそれを持っていなければいけないことにも気づくかもしれない。
もし、自分に与えるものがなければ、それを他者に与えることもできない。
だれかに何かを与えるために、自分への優しさやケアが大切になることもある。
与える心を理解することは自己と他者の理解を深める
このような心理メカニズムを理解することは、自己理解と対人関係の向上に役立つ。
自分が他者に何を与えたいのかを意識的に観察することで、自分自身の潜在的な欲求や価値観を知る手がかりになっていく。
こうして自己理解が深まるのと同じように、他者が何かを与えようとしているときには、その与えようとしているものは、他者の欲求を反映している可能性があることを認識することができる。
こうして、相手の行動や提案をより深く理解できるようになることは、より深いコミュニケーションを可能とする。
まとめ
他者に与えたいと思うものが自分自身の欲求を反映するという現象について、投影やステレオタイプ、ラカンの思想から述べてきた。
そして、他者を通して見えてくる自らの欲求は突き詰めていくと無我に繋がる。
その無我の気づきを得られると、私たちは自らのこだわりにとらわれることなく他者に与えることができる。慈悲喜捨の心が育まれていくのだ。
何かを与えるという行動は、社会的な動物である人間には自然にみられる行動である。
その行動を通して、自己理解と他者理解を深めていくことは、充実した人間関係や人生の幸福にもつながるものとなるだろう。
参考文献
アルボムッレ・スマナサーラ長老 無我の見方:「私」から自由になる生き方 サンガ新書
チャンディマ・ガンゴダウィラ長老(著)出村佳子(訳) 正思惟〈正しい思考:Samma Sankappa〉 : 欲・怒り・害意の手放し方 八正道 Sukhi Hotu
番場寛(1995)他者の欲望-ジャック・ラカンの欲望の理論- 大谷學報75(1) 1-18
石井辰典・竹澤正哲(2017)心的状態の推測方略: 投影とステレオタイプ化 社会心理学研究 32(3)187-199
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